モヒカン族の最後(映画)

20才くらいの時に見て、えらく感動した映画。ロマンチックラブと冒険と自然がミックスされて、衣装もヘアスタイルも素敵で、私もこんな恋愛がしたいと胸を熱くした。

それを25年以上たって見返すと……。

まず気づいたのだが監督がマイケル・マンだったこと。だからストーリーがずいぶん粗くてご都合主義だったのね。原作はクーパーによるアメリカ文学の古典にあたる作品らしいが、読んだことない。ウィキペディアで軽く粗筋を読んだだけ。

冒頭で主人公演じるダニエル・デイ=ルイスがなぜか上半身裸。裸になる必然性がどこにあるのかわからなかいが、女性の目を意識してのサービスだったのだろう。主人公がヒロインを救う場面も、最初数十人のネイティブ・アメリカンズがイギリス兵を圧倒していたのに、たった3人の主人公たちがそいつらを制圧してしまう。3人のうち1人は父ちゃんで、そんなに強そうではないのだが。

現代から見て一番違和感があるのが、白人同士の主人公の恋愛。原作でヒロインのコーラはムラータ(有色人種と白人のミックス? ダブル?クォーター? ポリティカルコレクトな表現はなに?)なのに、映画では完全な白人になっていて、ネイティブ・アメリカンに育てられたこれまた白人の主人公に恋をする。非LGBTLGBTの役を演じるだけで非難される今日ではあり得ない配役かも。(ドクター・ストレンジで、原作ではアジア人だったエンシェント・ワンが白人のティルダ・スウィントンによって演じられたことが批判されたのも記憶に新しい。)

と思ったら、マデリーン・ストウコスタリカ人の血をひいているらしい。じゃあ彼女自身がムラータなの? ならコーラに適役なのだろうか?深く考えるとわからなくなってくるので、ポリティカル・コレクトネスの話はここで終わりにしよう。

いずれにせよ、 コーラにとっては父の部下のダンカンよりワイルドなダニエル・デイ=ルイスのほうがよっぽど魅力的なのは理解できる。

ダンカンはゲリラの襲撃にも適切に対応できず、指揮統率能力に難があるし、倫理より組織の論理を優先してコーラの前でも嘘をつく。潔癖な若い女性は幻滅するよね。そしてフランス軍側の将軍がウェッブ将軍の斥候を捕らえたと言った時には「死ぬまで戦おう」とか神風特攻隊のような精神論をぬかす。指揮官の補佐役として必要なことは、ここで相手の言い分が本当かどうか検証することだし、何が事実なのか見極めてベストソリューションを見つけようとする姿勢であるが、ダンカンはきっとエリート育ちのおぼっちゃんなので、必要な能力や見識が身に付かなかったのだろう。でも教養はあるらしく、フランス語は同時通訳ができるくらいにペラペラ。

ダンカンはこのように、若い女性から見たら確かに面白味のない男である。でも我々と同じくらい平均的な人間なんじゃなかろうか。

対する主人公は確かにいい男で狩猟もできるし、戦闘能力にも優れているが、彼が得意とするのはセックスを含めて身体能力をフル活用することだけである。挑発的な発言を繰り返すだけで交渉は下手だし、組織をマネジメントする能力に長けているようには見受けられない。コミュニケーション不足で最後は弟が突っ走って殺されちゃうし。おまけに女のために家族と陥落寸前の要塞にとどまるような恋愛体質なので、将来別のいい女が出てきたら浮気しそうである。最後にヒロインを置いて自分だけ逃げるのも解せない。置いていったら、現実的に考えて女は強姦されて殺されるでしょ。その直後に戻ってきてコーラを救おうとするし、やることに一貫性がない。でもそれは監督がマイケル・マンなのでしょうがないのかも。

最後に生き残った主人公2人の関係もつり橋効果で盛り上がっただけなので、すぐに破綻しそう。だってイギリスのお嬢コーラが野性味はあるが、字もよめないであろう新大陸の男に満足できる? ダンカンのほうが釣り合いとれてるし、大切にしてくれそう。

そんな感じで、年をとると何も考えずに感動することが難しくなってくる。 この映画を見て号泣できた日々が懐かしい。

年月を経ても変わらないのは、コーラを演じたマデリーン・ストウの圧倒的美しさ。息をのむような正統派美人だと思う。