生命維持をめぐる家族論争

呼吸困難と淡とむせるのが辛すぎて、ついに母が喉に穴をあけて呼吸器につないでもらいたいという意思を表明した。母は病名告知の時に「人工的な措置はとらずに自然に死にたい」と言っていたのだが、今の状態が辛すぎるらしい。普通に考えて呼吸ができないのは辛いので、機械を頼ってでも呼吸ができるようになりたいと考えるのは当然だろうと思う。筋肉もすごい勢いで衰えていくのでもはや2階に上がるのも困難で、リビングを片付けてそこに介護用ベッドを置いて寝起きすることにした。1か月前までゆっくりでも歩けていたのに、もはや車椅子でなければ移動できないし、階段も上がれない。呼吸も食事もできなくなってきている。呼吸は計測したら同年代の半分の量しかできていないとのことで、そりゃ苦しいだろうと思う。

しかし献身的に母を介護している父がそれに大反対している。父は人間は自然に死ぬべきという信念というか強い思い込みを持っているらしい。よって母が今の生活を続けることを介助するのはよいが、身体に侵襲を加える措置には実は大反対だった。が、それを今まで言わなかったので、私たちは「じゃあ胃瘻手術をしましょうか」という話になるまでそのことに気づかなかった。

父は母のために3度の食事を準備し、入浴介護し、夜も付き添い、かいがいしく面倒を見ている。しかし今母が望んでいることは呼吸器をつけて楽になることで、毎回むせて苦しい食事をすることではない。それなのに、父の希望は母と毎日食事をしてなるべくこれまで通りの生活を送り続けることなのである。そして父が単独介護者である以上、母の生活は父に依存し、同時に父も母の存在を精神的に必要としている。

母はもう口もきけないので、コミュニケーション手段は筆談である。だから話すよりも情報量がどうしても限られてくる。そのため、肝心な場面では父が母を代弁してしまうのである。そしてそういう場合には母も父に忖度して、自分の意志を表明しない。夫婦のダイナミクスに介護がからみ、非常に複雑な状況が発生している。

このような状況で父は自分の見たいものを見て、母の病気の進行を止められるのではないかという希望を持ち続けている。胃瘻と人工呼吸器用の穴をあければ後戻りができなくなることを恐れているのである。だから日々様子を見に行く私にも「今日は調子がいい」「呼吸もできている」と楽観的なことを言い、私もちょっと疑いながらもそれを信じて喜んでいた。が、それと同時に、母が希望するなら父だって胃瘻も呼吸器も当然受け入れるのだろうと考えていた。ところが前回の診察でその話になったときに父が強く反対し、医者や看護師の踏み込んだ説得にも耳を貸さない。これ以上呼吸量が落ちれば手術ができなくなるかもしれないと言われても様子を見るとしか言わない。母も自己主張をしない。「夫が心配」とか筆談して、我々(というかメインは私)が父を説得するのを待っている。いくら弱っているとはいえ自分の命と体なんだからもっと自己主張しろとむかつく私。じゃあそのまま我慢して死ねとも思うが、それは倫理的に問題なので心の中だけにしまっておく。

母は母なりに父に負担をかけるのは申し訳ないと思い、父は父で現実を受け入れられずに迷走している。
しょうがないので、前回の診察の後3人で話し合い、私が直球で父に「あなたの思い込みとエゴを母に向けるのは間違っているので、現実を直視すべき。患者である母の意志を尊重せよ」と伝えたところ、父は「いろいろな考え方があるのに、俺の考えを否定するのは傲慢だ」と反論してくる。だから「自分の希望的観測をよりどころに、医者や母の考えを否定しているあなたはどうなんですか」と返すというやりとりを延々と続けて、「とりあえず、セカンドオピニオンを求めつつ胃瘻と人工呼吸をするというのが今日の結論ね」と宣言して帰ってきた。

同時に介護保険や身体障碍者の申請もせねばならず、前途多難である。が、介護保険以前に家族内で意見をまとめて胃瘻と呼吸器用の穴をあけるところまでもっていかないことにはどうしようもないので、粛々と進めていくしかない。早くヘルパーやかかりつけ医、訪問看護師などが入れる態勢を整え、父母の孤立及び父の暴走を防がねばいけない。

遠くに住む妹に事情を伝えるとこれは介護虐待ではないかという。虐待に近いものがあるが、虐待とまで言えるのかどうか。
どこでも多かれ少なかれこういうことは起きているのではないかとも思う。医者も看護師も父の考え方はおかしいと思っているが、実際自分たちが介護するわけではないのでそこまで強いことは言えない。そしてケアマネージャーはまだついていない。ケアマネージャーであればうちの頑固で思い込みの強い父を説得できるんだろうか? 言えないと思うよ。あんまり強いこと言ったら解任されるだけだし。

こういう状況で患者本人ではなく、介護者の意見が通ってしまうのは医療現場ではありがちだろうと思う。それぞれのケースに固有な事情が付随するわけで、介護の難しさは関係者の意見の集約をはかるところからすでに始まっているんだなと実感した。家族と言えど、違う価値観、考え方、ものの見方をしていて、逼迫した状況であればあるほどその差異が浮き彫りになる。家族の生死と自分の生活に直結する問題だけに、それぞれが必死になる。かといって感情論や屁理屈や思い込みや希望的観測を排除するのも危険だと思う。誰がどういう基準で何が正しいのかを決めるのかが不明確だし、排除されたと感じた者が介護戦線から離脱しても困る。なので、誰かがなるべくふわっとした方針をまとめ患者本人の意思に近い道筋をつけつつ、公的支援を最大限活用しながら複数の介護者と関係者の意見の一致をはかって、介護を進めないといけない。

それがそのまま今の私の課題になる。重い。